平成22年度企画展

「阿佐緒と歌人たち」

イメージ写真

平成22年12月1日より平成23年3月31日まで、企画展「阿佐緒と歌人たち」を開催いたしました。

阿佐緒は歌人として活躍した明治末から昭和初期にかけて、どのような交流を持ったのだろうか。 与謝野晶子に見出された後、「スバル」や「青鞜」に多くの短歌を発表し、「アララギ」で歌人としてのその地位を確かなものとしながらスキャンダラスな報道により歌壇から忘れ去られた阿佐緒。その阿佐緒を支えた歌人たちとの交流をご紹介します。

「浪漫派」の時代

明治四十二年、阿佐緒は文芸誌「女子文壇」に投稿した

この涙つひにわが身を沈むべき海とならむを思ひぬはじめ

の一首を選者の与謝野晶子に見出され、本格的に歌人としての道を歩むこととなった。

原阿佐緒宛 与謝野晶子書簡
原阿佐緒宛 与謝野晶子書簡

晶子の師事を受けるべく阿佐緒は与謝野鉄幹・晶子の率いる新詩社へと入社したが、既に新詩社の機関誌「明星」は明治四十一年に廃刊となっていた。そこで阿佐緒が自身の歌の発表の場として選んだのは「スバル」であった。
明治中期以降、和歌革新運動が推し進められたなかで明治三十二年、鉄幹は「東京新詩社」を設立し、機関誌「明星」を発行した。鉄幹の許には与謝野晶子、山川登美子、窪田空穂、石川啄木、北原白秋、吉井勇らが集い、浪漫主義の短歌の時代を築いていった。特に晶子の歌集「みだれ髪」は近代短歌における特筆すべき一歩となった。
しかし、鉄幹の反自然主義宣言を機に北原白秋や木下杢太郎、吉井勇ら「明星」後期を支えた同人たちが袂を分かったことより、明治四十一年「明星」は終焉を迎えた。その後白秋らによって新たに創刊されたのが「スバル」であった。阿佐緒はこの「スバル」に五百首近い短歌を発表している。

この鉄幹と晶子との出会いと「スバル」で発表の場を得たことが、「歌人原阿佐緒」が世に出るきっかけとなったのであった。
また、明治四十五年、吉井勇から葉書を受け取った阿佐緒はその感動と、吉井の歌集「酒ほがひ」を読み自ら短歌を作ったことを日記に記している。

吉井との交流はこの後も続き、吉井は阿佐緒の歌集「涙痕」に序歌を寄せている。

展示物写真

「アララギ」歌人たち

明治四十二年以降、「スバル」や「青鞜」に数多くの短歌を発表してきた阿佐緒であったが、大正二年に大きな転機が訪れることとなった。「アララギ」への入社である。

「アララギ」は正岡子規の元に集った歌人たちによる「根岸短歌会」に端を発し、明治四十一年に創刊された。万葉への回帰と写実を標榜した「アララギ」は後に歌壇の一大潮流となり、その流れは現代においても続いている。

阿佐緒の「アララギ」入会は古泉千樫の勧めがあってのものと言われている。当初阿佐緒は「スバル」と「アララギ」の両方に短歌を発表していたが、大正二年十二月に「スバル」が廃刊となると本格的に活動の場を「アララギ」へと移した。「アララギ」では阿佐緒は斉藤茂吉や島木赤彦の指導をうけ、浪漫派から写実へとその歌の傾向を変えていくこととなる。

原阿佐緒宛 古泉千樫書簡
原阿佐緒宛 古泉千樫書簡

「アララギ」においての阿佐緒の活躍は目覚しく、三ヶ島葭子、山田邦子らと並び大正期の「アララギ」の女流歌人の代表的存在となっている。

その後大正十年までに阿佐緒は六百首以上の歌を「アララギ」上に発表しているが、石原純との恋愛が世間で取り沙汰されるようになると、それが原因となり「アララギ」を破門となった。

晩年の阿佐緒は「アララギ」への復帰を望んだが、その願いは叶えられることはなかった。

原阿佐緒宛 古泉千樫書簡
原阿佐緒宛 古泉千樫書簡

女流歌人との交流

歌人として世に出て以来、阿佐緒は数々の文芸誌に短歌を発表してきた。「スバル」、「青鞜」、「アララギ」などは今日でも良く知られている。これらの誌上での活躍が阿佐緒の歌壇での地位を確立したと言えるが、ここで阿佐緒はもう一つ掛け替えのないものを手にしている。同年代の女流歌人たちとの繋がりである。

原阿佐緒宛 三ヶ島葭子書簡
原阿佐緒宛 三ヶ島葭子書簡

明治の末から大正にかけて与謝野晶子に代表される「女流歌人」の台頭には目覚しいものがあった。
明治四十四年に創刊された女性だけの手による文芸誌「青鞜」は言うに及ばず、「アララギ」においても女流歌人、特に阿佐緒と同年代の女性たちの活躍は注目されるべきものであった。三ヶ島葭子、山田邦子、杉浦翠子らは阿佐緒と同時期に「アララギ」などの誌上で活躍した女流歌人である。阿佐緒は彼女たちとの書簡のやり取りを行っていた。同じ時代に同じ歌の道を志す者として互いに支えあい、磨きあったのである。特に三ヶ島葭子とは、頻繁に手紙をやり取りし、時に悩みを打ち明けあい、互いの元を訪れたりするほどの親密な交際があった。

こうした同年代の女流歌人との付き合いが、阿佐緒の心の支えとなっていったことは想像に難くない。女性の社会的地位が決して高いとは言えなかった時代おいて、同じ夢を共有する仲間を持つことができたのは阿佐緒にとって幸福であったことだろう。

原阿佐緒宛 山田邦子書簡
原阿佐緒宛 山田邦子書簡
原阿佐緒宛 杉浦翠子書簡
原阿佐緒宛 杉浦翠子書簡

歌人扇畑利枝

晩年の阿佐緒を語るうえで、扇畑利枝は欠くことのできない存在である。

利枝は大正五年宮城県古川町(現大崎市)に生まれた。母親の影響で短歌を作り始め、「氾濫」に入会した。後に「群山」へ入会し歌作に打ち込んだ。

扇畑利枝と原阿佐緒が初めて出会ったのは昭和二十年のことであった。利枝が宮床の阿佐緒の元を訪れたのである。

昭和三年に石原純との関係が破綻した後、阿佐緒は一時帰郷したものの再び上京し、酒場や舞台・映画の仕事、流行歌の作詞などを手がけたが、その評判は必ずしも芳しいものではなかった。東京や大阪などを転々とした後に阿佐緒は昭和十年、宮床へと帰りついた。昭和十八年には終生阿佐緒を支え続けた母しげが死去し、阿佐緒自身は歌壇から忘れ去られたも同然の存在であった。そんな失意の阿佐緒の元を、扇畑利枝は訪れたのであった。

二人の細やかな交流は、現在残されている膨大な数の書簡にその様子を見ることができる。阿佐緒は利枝を心から慕い、この交流を生きる支えとしていたのかもしれない。

原阿佐緒と扇畑利枝
原阿佐緒と扇畑利枝

また、利枝が阿佐緒を支えたのは精神的な面だけではなかった。長男千秋の映画製作の失敗により困窮した阿佐緒に対し、利枝は色紙、短冊の頒布会を催してその生活の一助としたのであった。

昭和二十九年、阿佐緒は宮床を離れ、真鶴に住む次男保美の元に居を移した。その時に、阿佐緒はそれまで自身の手元に置いていた様々な書簡などを利枝に託している。阿佐緒にとって忘れ得ぬ思い出である歌人たちからの手紙であった。それほどまでに、阿佐緒は利枝を信頼していたのだろう。
石原純との関係をスキャンダラスに報道された阿佐緒に対しての世間の眼差しは、決して優しいものではなかった。「アララギ」を追放され、歌人としての存在を忘れ去れていた阿佐緒の復権に最も尽力したのはこの扇畑利枝であった。

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