平成19年度企画展

「原阿佐緒―恋の軌跡―」

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平成19年12月1日より平成20年3月30日まで、企画展「原阿佐緒―恋の軌跡―」を開催いたしました。
「美貌の女流歌人」としての原阿佐緒と、ただ一人の女性としての原阿佐緒を結び付けているキーワードの一つが「恋」であると言えるなら、その恋は彼女にとってどのような存在だったのでしょうか。

阿佐緒と「恋」

阿佐緒は恋愛についてどのような価値観を持っていたのだろうか。波乱万丈とも言える人生を送った阿佐緒であったが、必ずしも恋に対して積極的ではなかった。

私は思へば、藝術を至上とする生き方以外に世間的な何事も知らない、並々ならぬ無智な少女だった。少女といってもそのころは一八才だったと思ふ。そして私は、世にも不思議なばかばかしい理想と幻影をもつてゐた。垣間見た一人の男性に終生浄い恋情を捧げ、山の中にこもって、生命果つる日にその人を見る…といったものだった。

後に自らの人生を振り返った阿佐緒はこう記している。少女の頃の阿佐緒が抱いていたまだ見ぬ恋人への思いは、まるで少女小説のようなものであった。肉体的な性愛を伴わない、まさに思春期の少女の持つ潔癖さで精神的な恋愛に憧れたのだ。

(私の青春、嵐の中の青春、子持ちの青春、雪に埋れた青春、等々色々の言葉を構成して見る。)短かったともいえる私の青春、ほのぼのとした恋を恋する少女心、詩人に憧れ、美男を讃え、お茶の水の濠端の月に、勿忘草の物語に胸を躍らし、百花園の花の中に恋をささやかれる、そればかりか自分が画の対象になり詩になる、藝術を愛する少女心にはそれだけで充分に幸福だった。

小簾の間を月の洩れなば病むわれの頬のやつれに君おどろかむ

これはまだ私が歌をつくったこともない十八位の時のものだった。

書物の中に見るようなロマンティックな恋を、十八歳の阿佐緒は夢見ていたのだろう。十代の少女の持つ「恋に恋する」気持ち。その年頃の女性の誰もが持っていただろう憧れを、阿佐緒もまた抱いていた。それは他の少女たちと何ら変わりはないものであった。この頃の阿佐緒にとって「恋」とは書物や絵画の中にある物であったかもしれない。恋愛の中に理想を詰め込み、現実感を伴わない淡い「夢」であったのだ。

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原阿佐緒の日記
原阿佐緒の日記

夢と現実 小原要逸

阿佐緒が小原要逸と出会ったのは、東京の美術学校に入学した十七歳の時である。小原は阿佐緒の通う美術学校の英語教師であった。教鞭をとる傍ら英詩の翻訳を手掛け、何冊かの訳詩集を出版していた。
阿佐緒と小原の関係は文学や美術について語り合うことから始まった。
これこそ正に少女であった阿佐緒の夢見ていた男女の関係ではなかっただろうか。お互いに芸術を志す者同士として意見を交し合い、時に外国の美しい詩の世界に心を躍らせる。この美しい世界がいつまでも続くと、阿佐緒は思っていたのではなかったか。

自分を妹のように慈しみ、また芸術を語り合う師とも慕っていた人物の突然の豹変に、阿佐緒の人生は一変してしまった。「夢見る少女」であった阿佐緒に現実が突き付けられた瞬間であった。阿佐緒は小原の子を身ごもったことにより、志し半ばにして転学を余儀なくされることとなった。そして程なくして小原要逸には妻子があることを知るのである。  
精神的な結び付きこそが至上の愛であると夢想していた十代の阿佐緒にとって、あまりにも過酷な現実がそこにあった。自分の理想などは所詮絵空事に過ぎなかった。このことに気付いたとき阿佐緒の心はどんなにか傷ついたことだろう。

小原要逸書簡
小原要逸書簡

阿佐緒の苦悩と絶望は深く、自らに刃を向けるほどであった。明治四十年、阿佐緒はその苦悩の中で長男千秋を産み落とした。小原と生まれたばかりの赤子と共に故郷の土を踏んだ阿佐緒を待っていたのは披露宴であった。しかし、阿佐緒は小原と添い遂げることはない、という決意を抱いていた。  
小原と別れ、山里宮床の家に暮らす阿佐緒の支えとなったのは短歌であった。恋人との別離、父親のいない子への憐憫。胸中に渦巻くあらゆる思いを阿佐緒は歌に綴って行くこととなる。

夢の世界から現実へ。誰もが通る道であるが、その道程が与えた衝撃は阿佐緒にとってあまりにも大きかった。少女から一足飛びに母となった阿佐緒にとって、恋とは最早喜びではなかった。悲しみであった。しかし、この悲しみをもたらした小原要逸との出会いがなかったら、阿佐緒は全てを吐き出すように歌を作り続けただろうか。歌人としての原阿佐緒が生まれたのはこの悲しみ故だとしたら、皮肉なことである。

かなしき恋 古泉千樫

明治四十年、二十歳の阿佐緒は千秋を出産後し、翌年には宮床に帰郷した。子育ての傍ら作歌に打ち込む日々であった。阿佐緒が「スバル」や「青鞜」に次々に歌を発表していた大正一年、仙台において文芸誌「シャルル」が創刊された。このシャルルにより阿佐緒は古泉千樫と知り合うこととなる。

古泉千樫は明治十九年、千葉県に生まれた。十九歳で「馬酔木」へ歌を投稿、伊藤左千夫に認められたことをきっかけに、明治四十一年「アララギ」が創刊されるとその編集に携わるようになった。大正二年には「アララギ」の編集発行人となり、初期「アララギ」の中心的人物の一人であった。千樫はアララギでの活動の傍らシャルルの活動にも参加していた。また、阿佐緒もその一員であった。

二人の交流がどのように始まったかは定かではないが、大正一年の末頃から頻繁に書簡のやり取りがなされている。その交流の中で千樫は阿佐緒への思いを募らせていった。その後ついに二人は邂逅を果たしたと言われている。

千樫との密かな交流の一方で、阿佐緒はもう一つの恋情を胸に抱いていた。学生時代に兄とも慕っていた男性、後に夫となる庄子勇との再会があったのである。阿佐緒は二人の男性の間に立っていたのだ。

古泉千樫書簡
古泉千樫書簡

二人の別離は当然の如く訪れた。庄子勇の出現と、千樫に既に妻子があったこと、そしてその千樫の生まれたばかりの娘の死がその理由であった。千樫の妻は阿佐緒と千樫の関係を知り、心労のため母乳が止まり、その末に幼い娘は肺炎で亡くなったと言われている。これを悔いた千樫は阿佐緒から離れたのである。

この別れの後も、歌人同士としての阿佐緒と千樫は揺るぐことはなかった。石原純との「恋愛事件」が世間を騒がせた折も、千樫は一貫して阿佐緒を擁護する姿勢を貫いた。尊敬すべき歌人であり、ほのかな恋心を抱いた相手。阿佐緒にとって千樫は忘れえぬ人物であったことだろう。

最も愛したひと 庄子勇

その頃、仙台からSという青年が、上野の美校の洋画科へはいる為に上京して来た。Sは私の女学校のクラスメートのJ子の友達だった。恋人かもしれないと思った。彼は、古今集や晩翠の詩を暗誦してゐて、月夜の濠端の散歩などには、よく美声を張りあげて朗詠を得意とした。 私は数ヶ月で壱岐坂下を引き払って駒込林町に轉居した。そこから遠くない處にN女子美術といふ学校があった。すべてはSの配慮と手数を経て、私は彼に連れられて行って、そこに入学した。 (中略)
その頃はSもOと親しく語りあふ友人になってゐた。お互に一人の妹を、いつくしみ育ててくれているように私自身も信じてゐた。併しもう再びかえらない世界だった。Sはやがて足が遠くなった。私も再び牛込の方へ移轉した。  (「わが青春記」より)

阿佐緒は庄子勇と出会った頃のことをこう記している。庄子は仙台出身の学生で当時、東京美術学校(現東京芸大)で洋画を学んでいた。阿佐緒が女学校に通っていた頃より面識があり、阿佐緒の美術学校入学にも便宜をはかっていたようだ。小原要逸と同様に美術学校時代の阿佐緒と親しい交流があった。しかし、小原によって阿佐緒が妊娠すると、庄子は阿佐緒から離れてしまった。阿佐緒にとって小原と庄子は共に兄とも慕う人物であったが、彼らにしてみれば阿佐緒を巡るライバル同士であったのだろう。恋の敗者となった庄子は阿佐緒の傍に居続けることはできなかったのだ。

しかし、阿佐緒は小原との未来を選ぶことはなかった。故郷で一人子育てをする阿佐緒は庄子への思いを募らせることとなる。

庄子は東京美術学校を卒業後、山口県に教師の職を得ていた。離れ住むことで阿佐緒の庄子への思いはますます甘美なものとなっていたのである。大正二年、阿佐緒は仙台に帰省した庄子と再会し翌年には結婚に至る。

庄司勇と原阿佐緒
庄子勇と原阿佐緒

結婚後庄子は画家として世に出るべく阿佐緒を伴い上京した。長男千秋は宮床に残し、二人だけの生活であった。若き日に本意でないままに別れ、遠く離れながら思い続けてきた相手と遂に結ばれた阿佐緒は正に幸せの絶頂にあった。次男保美を授かり順調であるかのように見えた結婚生活であったが、その崩壊は早々に訪れた。出産後間もなく阿佐緒は母しげにより宮床へ連れ戻されたのである。これには「画家」庄子勇に原因があったと言われている。画家として立つための東京暮らしであったが、庄子はその精進を怠っていた。夜毎遊び歩き、生活費は原家に頼るという暮らしが阿佐緒の母しげの不信をかったのである。早くに夫を亡くし、女手一つで原家の財産を守り阿佐緒を育て上げたしげにとって容認できることではなかったのだ。

以後二年間、阿佐緒は庄子の待つ東京へ戻ることはなかった。阿佐緒にとってはやっと手に入れたかに思えた幸福が砕かれたように感じたことだろう。阿佐緒自身は庄子の元へ帰ることを切望していたが、しげは決してそれを許さなかった。また生後間もなく宮床へ連れ帰った保美は父親の顔さえ知らない。このことは益々阿佐緒の悲しみを深くしていた。阿佐緒は日々遠く離れた夫に思いを募らせてはいたのだ。しかしその夫からはろくに連絡さえなく、わが子の病にさえ真面目にとりあうことすらしない態度に阿佐緒の不信は徐々に増していったのだろう。別居から二年後、阿佐緒は職を求めて上京した。これは最早庄子との生活に見切りを付けたからであろう。夫に頼る自身を捨て、自分の力で活きて行きたいと願ったのだ。東京の書店で事務員の職を得たものの、それは庄子との再会につながってしまった。偶然に庄子の友人と出会ったことにより、阿佐緒は庄子のもとに連れ戻されてしまったのだ。

再び庄子との生活が始まったが、これも長続きすることはなかった。皮肉にもこの生活の崩壊の切欠は阿佐緒の妊娠であった。身ごもった阿佐緒の体調の悪化のため、帰郷を余儀なくされたのだ。正常な妊娠ではなかったため仙台の病院で処置を受けた阿佐緒は、それ以後庄子のもとには二度と戻らなかった。

また、二人の決別にはもう一つ原因があったと言われている。画家として芽の出ない庄子に対して、阿佐緒は歌人としての地位を順調に築きつつあった。庄子はそれを快く思わなかったのだ。すでに短歌に生きる道を見出していた阿佐緒にとって耐え難いことであった。

阿佐緒と庄子の結婚生活はわずか五年で終った。結果的には幸せであったとはいえないだろう。しかし、阿佐緒が庄子勇を愛していたのは真実である。思いを募らせ、それが叶った時の喜びは真実である。阿佐緒が願ったのは、もっと平凡な幸福であっただろう。愛した人と共に歩んで行きたい、それだけであったかもしれない。掴みかけた幸福は砕け散ってしまった。

庄子勇は、阿佐緒が正式に結婚した只ひとりの男性であった。

展示物写真
庄子勇書簡
庄子勇書簡

「恋愛事件」 石原純

原阿佐緒が「恋多き女」のイメージを強く持たれるのは、この石原純との「恋愛事件」があったためだろう。

阿佐緒と石原純の出会いは、大正六年に阿佐緒が東北帝国大学病院に入院した時であった。石原は東北帝国大学で教鞭をとる物理学者であると同時に、歌人であった。石原は学生時代に正岡子規の「歌よみに与ふる書」に影響を受け、伊藤左千夫を訪ね「馬酔木」に参加、「馬酔木」廃刊後は「アララギ」創刊時より参加し同人の一人として活動した。いわば「アララギ」の重鎮であり、仙台での「アララギ」の活動の中心人物であった。阿佐緒も大正二年より「アララギ」に入社し、多数の短歌を誌上に発表していたことから、同結社で活動する歌人同士として石原は阿佐緒を見舞ったのである。このことを切欠に、阿佐緒は石原の家で行われた歌会へ足を運ぶようになった。また手紙のやり取りも始まり、大正八年に長男千秋の進学のために仙台へ居を移すと石原はしばしばそこを訪れたりもした。しかし阿佐緒にとっての石原はあくまで短歌の尊敬すべき先輩であり、恋愛の対象ではなかったのである。

いつしか石原の気持ちは歌人同士の繋がりの域を越え、それを率直に阿佐緒に伝えるまでに至っていた。しかし、阿佐緒はその求愛を受け入れようとはしなかった。一説には阿佐緒には別に愛する男性がいたからだとも言われている。また、当時石原には妻と子ども達がいた、と言うこともあったであろう。過去においての過ちを再び繰返したくないとの気持ちもあったかもしれない。阿佐緒は石原の求愛を避けるために仙台から宮床へと帰った。しかし石原はその宮床へも足を運ぶようになったのであった。阿佐緒は再び石原から逃れるため旅立った。行先は東京、親友の歌人、三ヶ島葭子を頼っての上京であった。葭子の家に寄宿し、しばし穏やかな生活を送っていた阿佐緒であったが、そこに講演のため上京した石原が訪れた。石原は三ヶ島葭子夫妻を説得し、阿佐緒に自分の求愛に答えるように働きかけたのである。この執拗なアピールに遂に阿佐緒は石原の愛を受け入れるに至った。

しかし、この二人の関係はすぐにアララギの関係者たちの知る所となった。島木赤彦、斉藤茂吉らが石原と阿佐緒のもとを訪れ、二人の関係を清算するよう説得を行った。大学教授であり、アララギの中心メンバーである石原が、妻子をも捨てて阿佐緒のもとへ走ったことは道義的に、また「アララギの歌人」としても許されるものではなかったのである。だが石原はこれを全く受け入れなかった。結果、阿佐緒はアララギを破門され、石原もアララギを離れざるを得なくなったのであった。

大正十年七月末、新聞各紙は一斉に阿佐緒と石原純について報じた。

  • 「高名の物理学者情熱の歌人と恋の噂」
  • 「歌人原阿佐緒との恋愛で東北大教授を辞職」(東京朝日新聞)
  • 「女歌人との関係から石原博士遂に辞職」(読売新聞)
  • 「物理学会の権威石原博士辞職 『新しい女』に禍して」(日刊山形)
  • 「病気に堪へずとて辞表を提出した石原博士 原阿佐緒女子との経緯が直接原因」(河北新報)

記事の内容は、石原が東北帝国大学の学長に辞表を提出したこと、そしてその原因が原阿佐緒にあるとするものだった。阿佐緒は石原を誘惑した「悪魔」であり、異性を誘惑せずにいられない気質であると報じたのだ。

阿佐緒にとって思いもかけない報道であった。社会的地位のある男性を誘惑した悪女として一方的に糾弾されたのである。阿佐緒は事の顛末を、親友三ヶ島葭子は阿佐緒を擁護する文章を雑誌上に発表するが、それは報われることはなかった。

大正十一年、石原と阿佐緒は千葉県保田に「靉日荘」と呼ばれる洋館を建築、移り住んだ。海辺のこの洋館で石原は執筆に、阿佐緒は歌作や絵画の制作に励み、また三ヶ島葭子や古泉千樫、結城哀草花らの歌人が集い、仲睦まじい満ち足りた暮らしがあったかに見えた。しかし、阿佐緒にとっては必ずしもそうではなかったのだ。石原は阿佐緒に金銭の自由を許さなかったと言われている。年老いた母や子ども達に会うために故郷に帰ることも、親友三ヶ島葭子の葬儀に駆けつけることも許さなかった。また石原は別の女性に目を向け始めていた。この生活に耐えられず、阿佐緒は一人靉日荘を飛び出し、故郷へ向ったのだった。昭和三年のことだった。

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原阿佐緒と石原純連盟の手紙
原阿佐緒と石原純連盟の手紙
「由利子」は阿佐緒の筆名

阿佐緒の生き方を見るとき、時代に先駆けて生きた「新しい女」であるように感じるかもしれない。しかし、阿佐緒自身の視点に立ったとき、本当に阿佐緒は「新しい女」であったのだろうかという疑問も湧き上がるのだ。阿佐緒の恋はいつも受身ではなかったか。阿佐緒の前に現れる男性たちに翻弄され、流されるままに「新しい女」として生きざるを得なかったのではないか。その時々の恋に、それぞれの幸福を阿佐緒は感じていたのだろうか。現代において阿佐緒のような生き方は決して珍しいものではないだろう。ただ阿佐緒が生きて来た時代に、彼女に対する世間の目はやさしいものではなかった。恋によって阿佐緒の人生は様々に翻弄された。翻弄されながらも、阿佐緒が懸命に生きてきたことは確かであるのだ。

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