平成17年度企画展

蝶の日記
−阿佐緒の遺した二冊の日記−
平成17年12月12月6日より企画展「蝶の日記 −阿佐緒の遺した二冊の日記−」を開催しました。
原阿佐緒記念館には、古びた2冊の日記がのこされています。
生きながら針にぬかれし蝶のごと悶えつヽなほ飛ばむとそする
(明治四十五年六月十二日)
自らを針に留められた蝶に例え、ままならない状況から飛び立つために、悶えながらもなお羽ばたき続ける。
この歌は阿佐緒が日々の徒然を書き綴ったその日記帳に記されています。
蝶の意匠が表紙に施された二冊の日記には、阿佐緒の秘められた心がこめられていました。


これらの日記が記されたのは明治四十五年、阿佐緒が二十五歳の時です。
原阿佐緒は明治二十一年、宮城県黒川郡宮床村、現在の大和町宮床に生まれました。
裕福な家庭で教育熱心な両親の元で育てられた阿佐緒はやがて上京し、日本女子美術学校に入学、美術を学びました。この美術学校時代に短歌と出会い、その後の歌作の第一歩をふみ出します。また、長男千秋の父親となる小原要逸と知り合ったのもこの頃です。


明治四十年阿佐緒は長男千秋を出産し、翌年宮床へと帰郷しました。小原に妻子のあったことを知り別離を覚悟しての帰郷でした。その後、宮床で絵筆を執り続けるも育児との両立に悩み、次第に創作の舞台を短歌へと移していきました。明治四十二年に「女子文壇」へと投稿した一首、
この涙つひにわが身を沈むペき海とならむを思ひぬはじめ
が与謝野晶子にみとめられ、天賞を受賞することにより原阿佐緒は本格的に歌人としての道を歩み始めることになります。

与謝野晶子より阿佐緒宛の書簡
明治四十五年、阿佐緒は母しげ、長男千秋と共に宮床に暮らし、文芸誌「スバル」を中心に歌を発表し、歌人として認められつつありました。千秋は五歳となり、阿佐緒は歌集の出版には至らないまでも精力的に歌作に励み、仙台などの文芸を志す者たちとの交流も盛んに行っていました。


阿佐緒長男、千秋の手紙
二十五歳の原阿佐緒。
子を産み、育ててゆくほどに大人の年齢。
自分自身の夢や恋、感傷的な気持ちを捨て去って、現実だけを見つめるのにはまだ若すぎる年齢。
子への思い、捨て切れない恋、歌への情熱。様々な感情がこの二冊の小さな日記に詰め込まれています。