企画展 原阿佐緒 『母性と女性』
- 故郷・子供・恋・自立 -

展示写真 阿佐緒の家族

平成十六年十月一日より、企画展「原阿佐緒『母性と女性』」を開催致しました。故郷、子供、恋、自立。この四つのキーワードを通して原阿佐緒の生涯をご紹介します。

故郷

阿佐緒にとって故郷宮床は、いつでも「帰り着くところ」であったと言えるでしょう。 広大な土地を所有し、塩や麹の販売を行う旧家原家の一人娘として育った阿佐緒にとって故郷は、常に自分が大切に扱われ、暖かく見守られる場所でした。阿佐緒白身がそれを意識していなくとも、宮床は心許せる場所であったことでしょう。

しかし、二度の結婚の後・母しげと子ども達と暮らす阿佐緒への周囲からの視線は決して優しいものばかりではありませんでした。

わがひとりかへりしことをあざわらふ如き眼をして見らるるは悲し

何かひとつわが胸をさす一言をいはでははてぬふるさと人よ

この二首から阿佐緒に向けられた視線と、その苦悩を窺い知ることができます。 スキャンダラスに報じられた石原純との関係とその後の破局。女優や酒場のマダムとして働いた日々。幾度もの挫折の末に、帰り着くのはいつも故郷宮床でした。周囲から冷たい目を向けられことがあっても、母の待つ宮床は阿佐緒にとってなくてはならない場所だったのでしょう。

昭和十八年に長く阿佐緒を支え続けた母しげが亡くなり、長男千秋の映画製作の失敗によってその財産のほとんどを失っても、阿佐緒は故郷に留まりました。昭和二十九年に保美と共に暮らすために宮床を離れるまで、短歌を通じての地元の青年達や、歌人扇畑利枝との交流が始るなど、困窮のなかでも今までにない平穏な時間を過ごすことが出来たのかも知れません。

晩年、保美と共に東京に暮らした河佐緒は、宮床に帰りたい、と繰り返しました。

ふるさとの我家(わぎへ)の門のからたちは花咲きたらめ吾(あ)は帰らぬに

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子ども

「情熱の歌人」、「恋多き女」。原阿佐緒を想うとき、多くの人はそんなキーワードを思い浮かぺるかも知れません。

しかし、子を思う極普通の母親としての一面も確かに存在していました。

明治四十二年、阿佐緒は長男千秋を出産しました。当時日本画の勉強中であった阿佐緒は出産後も絵筆を執りつづけましたが、千秋が成長するにつれ子守りをしながらでもできる短歌へと、表現の場所を移して行きました。

吾に似ぬ子が手の形よ寒げやと息を吹きつつ思ひ出し人

捨てられて山にかくれて歌よみて泣きて子とのみ生くるわれはも

子を思い、別れた人のことを思い、自分自身を嘆く。この時期の阿佐緒の歌には「悲し」、「涙」などの言葉が多く見受けられ、深い悲しみの中で生きていたことを感じさせます。しかし、その悲嘆の中でも、子供への愛によって生きようとする姿もありました。

大正三年、阿佐緒は画家の庄子勇と結婚し、翌四年一月に東京にて次男保美出産しました。しかし、母しげの庄子への不信感より宮床へ連れ戻され、故郷での子供達との生活が始まります。

児の手とりかたくりの花今日も摘むみちのくの山は春日かなしき

うらさぴし馬ゆきすぎて夕ぐるる路にのこれる吾と吾が児と

子供と手を繋ぎ、故郷で過ごす日々。遠く離れた夫と、子供達のことを想い揺れ動く心。この頃の歌には、自身の身を嘆く気持ちと同時に、子供達への確かな愛情が表れています。

石原純との出会いと、スキャンダラスに報じられた二人の関係。故郷を離れての生活、親友の死。酒場の女、女優、流行歌の作詞。失意のうちの帰郷。まさに波乱万丈と言える、歌人原阿佐緒の生涯。

果して、それは阿佐緒白身が望んだものだったのでしょうか。他者に翻弄され、流され続けたとも言えるその人生のなかでも、阿佐緒が一人の「母親」であったことは紛れもない事実なのでした。

山深く子を守りゐるうるはしき母にてあらむわが相(すがた)恋ほし

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美貌の歌人原阿佐緒。その運命はいつも男性によって大きく動かされて来ました。阿佐緒は数多くの恋の歌を残しています。幾つかの出会いが阿佐緒の歌にも、そして生き方そのものにも大きな影響を及ぽしました。

明治三十七年、阿佐緒は母しげと共に上京し、日本女子美術学校へ入学し、英語教師であった小原用要逸と知り合います。小原要逸は明治十二年山口県に生まれ、東京帝国大学を卒業の後日本女子美術学校で教鞭を執り、その傍ら英詩の翻訳などを行っている文学士でした。阿佐緒と小原は親交を深め、新しい命を身に宿しました。そして小原には既に妻子のあったことを知ったのです。

このことから日本女子美術学校を中退、転居し、奎文女子美術学校へと転校し卒業。そのまま東京で出産に備えることとなりました。この間、妻子ある人の子を宿したことに苦悩し、自殺を図りましたが未遂に終わり、明治四十年十二月、長男千秋を出産します。

翌年阿佐緒は小原と千秋を伴い宮床へと帰郷します。しかしこの時には小原との別れを心の決めていたのでした。

阿佐緒の生涯で唯一正式に結婚したのが、庄子勇です。

庄子は明治十八年、仙台に生まれました。画家を志し東京美術学校(現東京芸術大学)に学び、阿佐緒との交流もこの学生時代に始まっています。庄子は同郷ということもあり阿佐緒の女子美術学校入学にも尽力し、兄妹のような親しい付き合いがあったようです。大正二年、庄子が仙台に帰省した折に二人は再び出会い、やがて結婚に至ります。大正三年四月、庄子勇三十歳、原阿佐緒二十七歳のことです。

しかし、その結婚生活も長くは続かず、大正八年離婚に至ります。 この結婚も結果的には上手くは行くことはありませんでしたが、一時でも阿佐緒に幸福な時間をもたらした事はたしかなのです。

阿佐緒と石原純が出会ったのは大正六年十二月、夫庄子勇と別居状態の阿佐緒が東北帝国大学医科大学付属病院に入院していた時のことです。当時の石原は東北帝国大学の教授を務め、相対性理論を日本に紹介した物理学者として、またアララギの歌人として揺るぎない地位を築いていました。

同じアララギ派の歌人として交流が始まり、大正十年に二人は同居するに至ります。そして大正十年七月lニ十日、各新聞は一斉に阿佐緒と石原の関係をスキャンダラスに報じました。二人はその後房州保田(現在の千葉県鋸南町)に居を移し、靉日荘(あいじつそう)と呼ばれた洋館で生活を始め、昭和三年に阿佐緒が石原のもとをさるまでその生活は続いたのでした。

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自立

新しい女、奔放な生き方をした女性。

他者によって翻弄され、流されて生きた女性。

阿佐緒の人生を表すのはどちらでしょうか。

素封家原家の一人娘として生まれた阿佐緒。父幸松は教育熱心な人で、当時の東北の農村にしては珍しいぐらいの教育を阿佐緒に受けさせていました。

東京の美術学校を卒業し、長男千秋と共にした阿佐緒は、明治四十二年宮城学院女学校(現宮城学院女子大学)に絵画教師としての職を得、またほぼ同時期に「女子文壇」に投稿した歌が与謝野晶子に認められ、天賞を受けました。これは今まで、「素封家原家」や母しげの庇護の元から、阿佐緒が「開かれた社会」へと踏み出した最初の一歩であったと言えるのかもしれません。

一年程で教師の職を辞すと、阿佐緒は作歌活動に打ち込むようなりました。この頃の阿佐緒にとって「生活するために働く」という事は実感できるものではなかったのでした。

阿佐緒が働くことで自立を目指したのはその八年後、大正六年のことです。庄子勇との結婚生活に行き詰まりを感じ、自分自身と子供達の経済的自立のために、単身上京して書店の事務員として働き始めました。しかしこの仕事も長くは続かず、夫庄子のもとへ連れ戻されるという形で終わりました。

この後しばらく阿佐緒が職を得ることはなく、歌を通じて社会との接点をもつ生活が続きました。

昭和三年、石原純との別離により、状況は一変しました。

自身の力で生活することを決意した阿佐緒が、歌舞伎座近くのバー「ラパン」にマネキンガールとして働き始めたのは昭和四年、四十二歳のときでした。

翌年三月には数寄虚橋に酒場「蕭々園阿佐緒の家」を開店します。これらの酒場勤めは、石原とのスキャンダルによって広まった知名度を逆手にとってのものでした。

しかし六月にはこの酒場を閉め、市村座の舞台「歎きの天使」に出演、昭和七年に映画「佳人いずこへ 」主演しましたが、阿佐緒のネームバリューを利用しただけのこれらは不評に終わりました。また、大阪に酒場「ニューヨークサロン」、「あさをの家」を開きますが、舞台や映画と同じく原阿佐緒の名を活用しようとしただけのものであったようです。

昭和十年、酒場暮らしに疲れた阿佐緒は宮床へと帰郷し、以後歌壇からも、社会からも忘れられて行きました。

男性によって流されて来たとも言える原阿佐緒の人生。

達成出来なかったとしても、懸命にその流れから抜け出ようとしたことも確かなのです。

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